ラカン&ジャズ

昨日は某所でラカンジョイス&ウルフ読解、という特別講演を拝聴。ペーパーは非常に難しかったが、質疑応答は具体的な例も盛り込まれ、刺激的だった。ちょこっと懇親会に出席して帰宅、Al Jolsonの例のThe Jazz Singerを観る。1927年、部分的にトーキーの場面が挿入されている作品。


主人公は厳格なユダヤ系の出身で、お父さんのカンター(シナゴーグで祈りを詠唱する歌手)に厳しく歌を仕込まれたのだが、ショービジネスに惹かれて決裂、まだ十歳ぐらいの子供なのに家出して、後にブラックフェイスのジャズ・シンガーとして大成功する。Jolson自身の伝記的な要素も盛り込まれているらしいが、アメリカへの同化とユダヤ系の伝統とのはざまで葛藤する主人公の苦悩がショー・ビジネスの世界を舞台に展開するのが興味深い。ここでのいわゆるブラックフェイスの役割についての議論は、異種混交性(ユダヤアメリカ人が黒人の音楽的伝統を大衆に紹介する)を称えるものと、逆に差別性(ユダヤ人のアメリカ化が、黒人のステレオタイプを生産することによって可能になる、という議論)を批判するものがあるらしいのだが、実際に観て思ったのは、物語中で主人公が顔を黒塗りにするのが、何の説明もなくはじめられているということで、これはおそらく当時のアメリカのブロードウェイでは、ミンストレルショーの流れを汲んだこの仮装が、それくらいに当り前の舞台演出だと思われていたということなのだろう。


顔を黒塗りにすることでより情感のこもった歌が歌え、観客にも人気を博すというのは、考えてみればずいぶん奇妙な心理状態ではあり、それが社会的・歴史的条件のどんな歪みを逆照射しているのか、またそういう当時のショー・ビジネスの歴史的条件が、映画というメディアにおけるあたらしいテクノロジー(トーキー)の導入とどのように交錯しているのか、そういう関心を抜きにしても、けっこう面白い、見せる映画です。*1

*1:ちなみに、東欧系ユダヤ人の伝統からアメリカのショー・ビジネスの世界へ、という物語はSally Potterの『耳に残るは君の歌声』のあらすじでもあるわけですよね。このパターンは当時の国際情勢の変動と移民の流入/制限といった事情と、実は密接につながっているということなのでしょうね、やっぱり。Al Jolson自身、子供時代にリトアニアから移ってきていたらしい。