具体的/抽象的

土曜日は某所で行われたベケット関係のミニシンポジウムを拝聴する。周到に準備された四人の発表がとても興味深く、ベケットは素人ながらけっこう触発される。なぜ彼はあれほどに具体的(身体的)なのに、同時にこうも抽象的なのだろうか?この抽象性そのものを歴史化できないのか?*1 なんて苛立ちを抑えきれないわけだが、それは悪い意味での苛立ちなのではなくて、考えを触発するきわめて肯定的な苛立ちなのだった、なんて書くと、もっと真面目にこの作家に没入すべきなのかなあ、それはそれで時間がかかるなあ、なんて恐れを抱きながら。

*1:例えば、この日質問に答えてくれたゲストのイギリス人の先生は、ベケットは「感傷」を避けるために歴史的細部を原稿から抹消したのだ、と答えてくれた。勇気ある断定の身振りに伴われたこの解答はきわめて魅力的ながら、同時に思うのは、もしも「感傷」を避けるためにこの作家があそこまで行ってしまったのならば、ほかのほぼあらゆる表現が感傷的だということになるのではないか? そしてまた、そのようにして「感傷」が避けられているからこそ、読者としての私たちはそこに不在であるものを過剰なまでに読み込み、あるいは注ぎ込んでしまうのではないのか? などなど。なんらかの意味で感傷的でないテクストなんて、はたして本当にあり得るのか? まあただ、この場合「あるかないか」というのは虚偽の問題構成でしかなくて、もう少し生産的な問題の立て方を探ってみるべきなのだと思うのだけど。