もうひとつの肖像

12日のお仕事を前にしてその前日、じつは渋谷のBunkamuraに「ロシア・アヴァンギャルド展」を訪れていた。モスクワ市近代美術館所蔵の20世紀初頭の前衛美術、おもに絵画中心の展覧会で、作品数は100にも満たない小ぶりの展覧会なのだが、その分ヴァラエティが豊富で、革命前後のロシア美術界がさまざまな影響に開かれつつ、また同時に独自の発展を遂げていたことがわかってけっこうおもしろかった。


たとえば最初のセクション「ネオ・プリミティヴィズム」で取り上げられるのは、美術収集家シチューキンを介して西洋のフォーヴィズムを知った画家たち、ラリオーノフやゴンチャローヴァが「民衆芸術」を見出してゆくプロセス。この流れにシャガールの幻想的な絵画なんかも位置づけることができるし、また彼らはやがて、パリの画家たちが「純朴な画家」ルソーに見つけたのと同じ魅力を、グルジアの放浪画家ニコ・ピロスマニの素朴な看板画、動物画に見出してゆく。


ゴンチャローヴァの生命賛美はちょっとブルームズベリーを思わせるものがあるし、ロシア画家たちのピロスマニ「発見」は、ベン・ニコルソンが「見つけた」アルフレッド・ウォリスの位置とほぼ同じ気がする。ただどうなんだろう、ルソーの絵は好きなんだけど、ウォリスは以前から微妙だと思っていたし、今回のピロスマニも「国民画家」だという話だが、作品そのものにはきらめきを感じない。ネイティヴィズムの徴候だと思うと警戒してしまって、虚心坦懐に鑑賞できないのかもしれない。ゴンチャローヴァは普通に良いと思ったんだけど…。


おおまかに分けてもう一つの流れ、キュビズム未来派etcの流れを汲む画家たちの作品を見ていて逆に面白いのは、影響を受け過ぎていてしばしばフランスやイタリアの画家の作風と区別がつかない、というかまったく一緒なところがある、ということ。ポポーヴァの「ギター」という作品(18番)はスタイルどころか主題さえもピカソやブラックと同じで、文字がロシア語でなかったらこれがパリで書かれたといわれても信じてしまうだろう。


ただ、べつにエピゴーネンばっかりだと言っているわけではなくて、たとえばカタログ9番、オリガ・ローザノーヴァという女性画家の「汽車のあるコンポジション」などは、未来派の強い影響を受けつつも(画面をリズミカルに横断する動線がほぼ同時代のバッラの作品にとてもよく似ている)、暖か味のある色づかいや、背後を横切る汽車の具象との組み合わせで、イタリア未来派よりもやさしい作品に仕上がっていると思う。良い意味で「暴力的」ではないのであり、これを「女性的」といって片づけてしまったら安易に過ぎるのだろうが、端的に言って美質だと思う。ちなみに、ローザノーヴァはのちにマレーヴィチの協力者のひとりになったというから、じつは重要な画家なのかもしれない。


とまあ、あまり細かい観察を挙げていってもきりがないので話を絞ると、①アレクサンドル・アルキペンコの彫刻、②マレーヴィチ、特に「シュプレマティズム」以後のマレーヴィチ、③『火星の女王アエリータ』(1924)の衣装・セットデザインの3つが今回の大きな収穫だった。


アルキペンコはのちにヘンリー・ムーアやザッキンすら私淑したほどだから重要な彫刻家には違いないが、そういうのを抜きにして、今回来ている小ぶりのブロンズ像二点は普通に美しい。抽象化を経てはいるけど、荒々しくはなく、むしろ優美で、なまめかしくすらある。


マレーヴィチは、残念ながらシュプレマティズムの抽象画はあまり良いものではなかった(オランダの近代美術館にあるものに比べると、数段劣る作例だろう)が、「抽象以後」のマレーヴィチの興味深さを知った作品が、チラシの表紙にもなっている「農婦、スーパーナチュラリズム」(1920年代)である。妙に崇高な画面構成で、よく分からないがともかく迫力がある。うまく説明できないのでちょっともどかしい。「スーパーナチュラリズム」というタイトルが興味深い。「スーパーリアル」ではない、という意味で。


③は映画で、日本でもDVDが発売されているらしいからそのうち入手したい。画家でもあったアレクサンドラ・エクステルが衣装を手がけたSF作品で、舞台とか、小道具とかにアヴァンギャルドのにおいを感じる、ロシア前衛運動と舞台芸術の結びつきを知るには貴重な資料なのだろう。今回これを知ったのはけっこうのちのち大きいかも知れない。犬も歩けば棒に当たる。


ちなみにこの展覧会の最後を飾っているのは、晩年近いマレーヴィチとその妻の肖像画。いちどは「絶対抽象」に達した画家が革命後に迫害されて、晩年は不遇な一介の技師として過ごした、なんて話を聞くとどうしてもこの肖像に哀感を読み込んでしまうのかもしれないが、それはよくもわるくも「モダニスト」的な偏見というやつかもしれないので、ぼくらはそろそろ「肖像画」を観る方法を学びなおしたほうが良いのではないか、なんて最近思っている。ここのところは前回のつづき。


アヴァンギャルドが「作品」として遺されるというのはどういうことなのか。こないだの「パフォーマンス」あるいは「アクション」という論点との関係で、もう少し熟慮が必要になってくる問題のひとつなのだろう。うーん、むずかしい…。