ターナーとモディリアーニ

午前中、すこし翻訳の仕事をした後、午後からひさしぶりに展覧会へ。


まず、同僚にタダ券を分けてもらった「英国美術の現在史 ターナー賞の歩み」展 at 森美術館へ。25周年ということで、かなり大規模な回顧展なのかと思っていたが、あんがい作品数が少ない。代表的なアーティストの典型的な作品を数点ずつ選んで持ってきました、というかんじの並べ方で、あの広い森美術館なのに、一時間足らずで観終わってしまった。ちょっと拍子抜けか? デミアン・ハーストの作品はあったが、基本的にターナー賞受賞者のみなので、YBAにカテゴライズされるアーティストでも、受賞してないチャップマン兄弟とか、トレイシー・エミンの作品は無い(もっとも、チャップマン兄弟の作品なんて、物議をかもしそうで日本で展示できるのか、という疑問はあるが)。受賞者に限定する必要はなかったのでは。リュシアン・フロイドとかみたかった。


ただ期待外れというのともまたちょっと違って、収穫もあった。ハーストのあの有名な「母と子、分断されて」(1993)はようやく現物を観たし(おもっていたよりもクリーンな印象)、女装の陶芸家、グレイソン・ペリーはセンセーショナルな話題にされる以上に実力のあるひとだと思った。あと、1991年に受賞したアニッシュ・カプーアというひとはこれまでまったく意識していなかったが、Void No.3と題された作品がすばらしい。中心が空洞になっている半円球状の物体が壁に取り付けられているだけなのだが、内側も外側も真っ黒なので、正面から見ると、黒く塗りつぶされた平面があるだけに見える(実際は目の前には空洞があるはずなのに)*1。空間の感覚をもてあそぶ作品で、ちょっとフォンタナを連想した、が、あんまり関係ないか。『ジキル博士とハイド氏』の映画を使ったダグラス・ゴードンの映像作品も記憶に残る。


それとあとは、ギルバート&ジョージの作品。彼らの作品は、英国で目にする機会はじつはひじょうに多かったのだが、これまではなんだかピンと来ないことが多くて、さらっと流していたのだが、今回、Death after Life (1984)という着色写真とその解説をみていて、はじめてどういうことなのかわかった。移民系第2〜3世代と思われる若者たちの大きな顔写真と、パンク風の白人青年たちの集団、それにスーツを着込んだ自分たち自身の写真を巨大な画面に配して、原色で毒々しく塗り固めたもの。不協和音と暴力のイメージ。時はサッチャー政権、そう、この作品世界は、じつは『マイ・ビューティフル・ランドレット』(1985)の世界にとても近いのである。これがなんとなく理解できそうに思われたのは、今回いちばんの収穫ということになるだろうか。


英国美術の現在史―ターナー賞の歩み

英国美術の現在史―ターナー賞の歩み


これだけでは物足りなく思えたので、その後歩いて乃木坂の国立新美術館へ。ヒルズの展望台から遠目に眺めたことはあったが、実際に訪れたのはこれがはじめて。国内過去最大級だという「モディリアーニ2008」展へ。以前から好きな画家のひとりなのだが、今回は、「これは!」というような作品はなかったような気がする。様式化された肖像画が中心で、彫刻は一点もなし。ヌードは2点しか来てない。2006年秋に渋谷で観た「リール近代美術館展」で来ていた母子像、あるいは、ロンドンのコートールドにある裸婦坐像を比較対象として思い出す。ただ、彫刻をやっていた初期によく描いていた「カリアティッド」(ギリシャ神殿の柱によくついている、屋根を支える女性像)をモチーフにしたデッサンがたくさん来ていて、単純化された線で描かれた、重みに耐えてしなる肉体の、踊っているような躍動感がけっこう良い。*2以前から思っていたが、これはパウンドの友達だった若死にしたゴーディエ=ブルゼスカの作風をすこし思い出させる。あとは、画家仲間の男友達(スーチン、ディエゴ・リベラなど)を描いたものが案外よい、と思った。


芸術新潮 2007年 05月号 [雑誌]

芸術新潮 2007年 05月号 [雑誌]


とまあ、リフレッシュした後で、帰宅後、またすこし翻訳。そろそろ「時限爆弾」に本腰を入れようか、と思う。

*1:カプーアはもともとインド出身だとの話。

*2:これについてはちなみに、上の本で宮下規久朗氏がモディリアーニの「いちばんの傑作」かもしれないと書いている。