遅れてきた読者

東京ではいかにも二月らしい雪が降っている。


ここ数日、いくらかたまった調べ物を一気に片付けるべく、図書館に足しげく通ったり、資料の文庫版を探すために書店に立ち寄ったりしていたのだが、そんな昨日、ずっと欲しかったダルコ・スーヴィン『SFの変容』の翻訳をある古書店でたまたま見つけたので、ちょっと高かったが、衝動買いしてしまった。


SFの変容―ある文学ジャンルの詩学と歴史

SFの変容―ある文学ジャンルの詩学と歴史


思い返すと、私はSFというジャンルと幸運な出会いをしてきたわけではない。どちらかというと正統派的な文学ファンだった高校生のころ、「やっぱエンターテイメントも読まないとな」などという不遜な気持ち(汗)から当時の私がまず目を向けたのは、アガサ・クリスティーエラリー・クイーンを中心とする20世紀前半の「本格」推理小説と、サイエンス・フィクション、とくにこの二つのジャンルだった。ところが、推理小説はすいすいと読み進められるものの、SFのほうはというと、その世界観にのめり込める小説と、なかなか理解できずに苦労する小説との差が大きく、つまり当時の私にとっては「当たり外れが大きい」分野であると感じられたので、一部の作家(とくにスタニスワフ・レムストルガツキー兄弟)の熱烈なファンになったことを除いては、その後、いつのまにかあまり手に取らなくなってしまったのだった……。


いまにして思うと、当時の自分の読解力不足もさることながら(また、それを時代状況のせいにするつもりもないのだけど)、「出会いのタイミング」が良くなかった、とも言えるかも知れない。高校生時代というと90年代の前半ぐらいだが、かつてのSFというジャンルを包みこんでいた熱気、たんなるサブ・カルチャーに留まらない、カウンター・カルチャーとしてのアウラのようなものはすでに確実に失われ、たまに古書店で目にする絶版になったサンリオSF文庫(たいてい1000円以上、小遣いでやりくりしていた当時の私にとってはかなりの高額で手が出なかった)を手に取る際に、その「余熱」ぐらいは感じ取ることができたものの、その「もっとも熱かった時代」に居合わせなかった、「遅れてきてしまった」という取り返しのつかない感触(belatedness)がよけいに、そのときの私をこのジャンルから遠ざけていたのかもしれない。*1


このSFというジャンルのかつての最盛期、そして、その「退潮」とでも呼べそうな現象の後で、現在のサイエンス・フィクションを取り巻く状況はどう変わってきているのだろうか。マンガにせよアニメにせよラノベにせよ、もうちょっとメインストリームの映画にせよ、SF的な想像力の意匠は、本来は種類を異にするファンタジー的な想像力と混ざりあって、自然化された形で、現代の大衆文化のすみずみまで散種されているように思える。いわば、かつてよりも、SFというジャンルは私たちの身近にあるのかもしれない(インターネット、メール、携帯が普及し、電子メディアによって媒介されたグローバリゼーションの日常経験そのものが、きわめて "SF" 的になってきていることは言うまでもなく)。


だが、このように自然化=常態化したSF的想像力には、かつての最盛期を支えた熱気、その「ユートピア」的、あるいは冷戦下の核戦争の脅威にインスパイアされた「アポカリプス」的な可能性は、いまでも潜在的に眠っているのだろうか。もし、このような可能性が眠っているのだとしたら、それをふたたび呼び覚ますことはできるのだろうか。そして、もしそうできる可能性が残されているのだとしたら、どうやって?


と、そんなことを、スーヴィンの翻訳に付された「訳者あとがき」に目を通しながら、つらつらと考えはじめているのだった。1990年11月という日付けを持つこの文章は当時のSF批評の流れや政治性/非政治性なども概観していたりして、自分自身の「遅れてきた」読者という感触からしても興味深いのだが、それよりなにより、名文だと思う。長文になるが、思わず引用。

いまひとつの日付け――おそらくそれは、確実にもうすぐ破滅する地球の不確定の未来の一日だろう。ポスト・アポカリプスのある日、現在の文明が崩壊したあとのミュータント化した新人類か、あるいは人類ならざるなにかが、砂漠化した地表に、あるいはガラス化した地表に、埋もれた図書館への入口を見いだすかもしれない。彼、または彼女、またはそれは、その場所で塵芥寸前の、分子化する一歩手前の本書を発見するかもしれない。そして知ることだろう――二十一世紀をまたずして崩壊への後戻りできない過程を辿りはじめた旧文明が、その全歴史をとおして、破滅へと自覚のないままひた走ったわけではないということ、それに歯止めをかけようとした伝統が厳然としてあったこと、この霊長類がすべて多幸症で愚劣ではなかったことを。そのとき、この死滅した霊長類にも、ささやかな名誉が残されていたことを知った未来の訪問者に、もし顔といえるものがあったなら、そこにはいったいどんな表情が浮かんでいるのだろうか。*2


幸か不幸か、ここで予見された霊長類の終末はまだ訪れておらず、自分は「ミュータント化した新人類」の読者でもなく、「遅れてきた読者」はそういう意味で、永遠という時間を尺度にして考えれば、ある緩慢な時間の持続のなかに身を置いているのであり、決定的な断絶の後に生を受けたわけではないということが分かる。


という気持ちで、「遅れてする読書」に取りかかることになるのだろう。

*1:ちなみに、サンリオSF文庫が発刊されていたのは、1978年7月から1987年8月のほぼ10年間のことであったらしい。レムとグィンを数冊所有しているが、(早川文庫や創元文庫でもそうだけど)「翻訳数の割には絶版が多い」というのも、SFの難しいところではないかなあ、と思う。

*2:同書pp. 477-78.