声の権能

先週土曜日のシンポジウムをなんとか無事に終えて、懇親会でもそこそこ歓談し、ようやくこの年末の難関の一つをクリアした、とほっとして帰宅したら気のせいか喉が痛い。そのまま眠って、日曜の朝に起床してからもまだ喉が痛いので、これはどうやらここ2ヶ月ほどそれに向けて準備していたイベントが終わったので「緊張の糸」が切れて、ちょっと体調を崩したらしい、と気がついた。できるだけ無理は控えて、常備薬も服用して数日、本日の仕事でもやはり喉が痛い。この職業で声が出ないのはつらい。声を出さずに授業をおこなう方法を誰か発明したら、ノーベル賞ものではないだろうか、などなど、つらつら思うことしばし。


ところで、やはり肉声というのは大事なのだなあと思ったのは、先日のシンポジウムの終わり近くで、とつぜん詩人の吉増剛造氏が登壇され、ご自作の朗読をなさった時で、そのパフォーマンスは言葉の通常のイントネーションを崩し、意味伝達機能を破壊するぎりぎりのところで踏みとどまりながら、ただひたすらに鬼気迫る情念を表現する「声」の演出を成し遂げていた。ちなみに、その2日後には例のクッツェーの自作朗読会に参加する幸運もあった。その作品はというと、一つのページが二つの部分に別れており、上半分ではさまざまな深刻な題材を扱ったエッセイが、下半分にはそれを書いている作者とされる登場人物が年若い少女を相手に展開する老いらくの痴態が別々に書かれているという実験的なもので、この二つを並行的なものとして「読む」ことが可能に思えるのはテクストの視覚的な構成のゆえであって、当然、それを朗読しようとすればさまざまな技術上の問題が発生する。彼は、それぞれの部分を交互に読むことによってとりあえずこの問題をクリアしたかのようでいて、(当日の質問にあったように)じつのところテクストに現れる「第三の声」は再現し得ない、というアポリアを浮彫りにしていたようだが、それもまた実は、この一筋縄では行かない作家の仕掛けた罠なのかもしれない、などなど。


で、振り返って考えると、土曜のイベントは英語とフランス語の多言語併用シンポジウムになっていて、しばしばその壁がもどかしく感じられる機会もあったりはしたが、それはそれなりに成功だったのでは? ただ、自分のことに限っていうと、言葉の面での補助を提供する目的で充実したレジュメを配布することになっていて、その方にも準備時間を割いていたせいで、「どうせ読むんだから」という心積もりになってしまって、発表のパフォーマンスとしての側面をやや疎かにしてしまったかもしれず、その辺は今後の反省点だろうか。それと比べると第二セッションで発表されたYさんは(ジャン・ポーランという、僕にとっては未知の文学者を扱った発表の内容も非常に興味深かったが)、聴衆を引き込む「語り」上手なところがあって、こう考えると、「聞かせる」テクニックの魅力もとても大切なことなのだなあ、と思った。


にしても、やっぱり喉が痛い……。