グローバル空間

フライトプラン [DVD]

フライトプラン [DVD]


これをアクション映画として観てはいけない。「高度四万メートルを飛行するジェット機なかで子供が消える」、という意表を突いた設定、トリックのありえなさ、真犯人たちのあっけなさ、などなど、現実性とか信憑性とかの観点からのみ判断すれば、文句をつけたくなる気持ちも分からないではないが、それらはこの映画の真のポイントではない。


また、消えた子供を捜す母親を演じるジョディー・フォスターの演技について、「半狂乱的」、「他の乗客に迷惑かけすぎ」、「根拠のないいちゃもんをつけて迷惑をかけたアラブ人に後で謝らないのはおかしい」、など、常識の見地から批判している人も多いようだが、そのような反応はこの映画が「問題」として提示する、特殊な状況に置かれた母親の心理を、あまりにも額面通りに受け入れてしまっている結果なのかもしれない。


この映画はむしろ、そのような特殊で確かに「半狂乱的」でもある心理状態を、流麗な映像美が抉り出す非人格的な「グローバル空間」との厳密な対比によって観ることを要求しているのだ。ベルリンの地下鉄、遺体安置所に始まり、エアポート建築、滑走路、そして、物語の主な舞台となるジェット機の内部空間そのもの。そこが旅行客でごった返していようが、あるいは逆に、まったく人気が無かろうが、これらの「空間」はすべて、もともとその「土地」に備わっていただろう個性や地域性を抹消され、表層的な滑らかさとしばしば演出された快適さを帯びてはいるが、それでもどこか拭いきれない非人間的な様相を晒している。


この映画が主題化しているのは、まさにそのような快適さ(=無関心)に彩られた空間と、全ての外的な支えを剥ぎ取られて孤立した主観性との容赦無き対峙なのである。


主人公の不安定な心理状態は映画の冒頭から暗示されている。転落死した夫の遺体を安置所に受け取りに行く場面は、その後死んだはずの夫に伴われて人気の無い夜のベルリンをさ迷い歩く主人公の幻想と交互に映し出され、つかのまの「監視されている」という妄想とともに、「機内で消えた子供」がはじめから極限の心理状態に置かれた主人公の幻想でしかなかったのではないか、という疑惑を生み出すもとになる。そもそも機内に乗り込んで来た主人公の6歳の娘を見ても覚えてもいなかった他の乗客・乗務員たちは大方この見方に傾いているし、物語の途中までは、観客である私たちもまた、主人公の主観が現実であるということに完全には確信を持てないようになっている。実際、無実のアラブ系乗客2人組みに誘拐犯・テロリストの嫌疑をかける母親の行動は、言語道断の偏見に基づいた被害妄想すれすれの地点まで達している。


しかしその裏地に見えてくるのは、1人の人間の主観が他の人々との共同主観に支えられない、没個性的で、無関心な人工的環境である。交互に提示される人気のない深夜の地下鉄のホームと、遺体安置所ののっぺりとした空間は、互いを見まごうほどに奇妙にも似通っている。ニュー・ヨークの父母の元に夫の遺体を搬送するために向かったベルリンのエアポートは逆に旅行客でごった返しているが、彼らはそれぞれに異なる目的地を目指すのみで、そこに人間的な出会いが生み出され育まれる余地はない。


たしか五十嵐太郎だったかもしれないが、彼は「エアポートはグローバル建築の最たるものだ」というような趣旨のことを言っていた気がする。機能的要請による非人間的な巨大さ、セキュリティ・コントロールのための規律、表層的な清潔さによって必然的に規定された空間は、グローバル資本主義を彩る多くのブランド・ショップがひしめく愉悦の商品空間でもある。それが成田であろうが、ベルリンであろうが、ドバイであろうが、ニューヨークであろうが、エアポートとは同じ機能と同じショップの組み合わせによって成り立つものであるために、それらはその本質においてどれも似通ってしまっている。まさに、個性と地域性を拭い去られ、終わりのないトランジットだけに特徴づけられたグローバリズムの空間。


この映画の面白いところは、そのような空間を巨大なジェット機の内部にも見出していることかもしれない。僕にとって、この映画の最も印象的なシーンはこのジェット機の内部に娘を抱えたジョディー・フォスターが最初に入ってゆく場面である。小さな子供を連れているので、フォスター演じる主人公は誰よりも先に機内に足を踏み入れることができたのだが、そこで、誰も座っていない列を成して並ぶ座席の前に設置された無数の小さなモニターにはすでに電源が入っており、乗客たちを迎えるウェルカム・メッセージが流されている。CG加工されたこの映像では、航空会社の制服を着込み正面を向いた人物像が、次々に別のジェンダー・別の人種へと無限に変身し、多言語(英語・ドイツ語・日本語・その他無数の言語…)で意味的には同じメッセージをただひたすらに繰り返している。これは多種多様な消費者たちの異なるニーズを完璧に充足させる航空会社のサービス精神を表現したものであろうが、それが結果として、かなり異様で、非人間的で、はっきり言ってキモチワルイものになっているという点に、この映画の製作者の意図を読み込んでも、たぶんそんなに穿ち過ぎでもないはずだろう。


時には連続して10数時間にも及ぶ空の旅をできるだけ耐えやすいものにするために、航空機の内部には快適さを演出するあらゆる装置が備え付けられている。個人用モニターやヘッドホンは最近ではもう当たり前としても、この映画に登場する世界最大級のジェット機には、一列に10数人の座席を設置できる横幅を利用してちょっとしたラウンジやバーなんかすらもある。だが、そういう表面的には快適な空間も実のところ一部のバランスを崩せば全てが崩壊する不安定なテクノロジーの塊であり、機長を筆頭とした乗務員による厳密な安全管理を必要とし、そこにはまた、乗客が立ち入ることを決して許されず、普段はまったく目にすることすらない、無数の「隙間」も存在している。そのような「隙間」は乗客にとっては「無意識」の領域に属している(そこがこの物語中の少女誘拐のトリックにもなっているわけだが)、その点に気付かせてくれただけでもこの映画には価値がある。


やや皮肉なのは、主人公である母親自身が、実はこのように非人格的な空間を創造してしまったデザイナーであった、という設定になっていることだろうか。そのような能力は、もしかしたら、時おり仄めかされている主人公の家庭的な不幸の原因の一つでもあった、ということなのかもしれないし、同時に、真犯人に立ち向かう際に彼女にとって有利に働いた点でもあったわけなのだが。


いずれにせよ、乗客の視覚と聴覚を独占し、彼ら・彼女らを無関心な「自己充足」へといざなうこの空間が危険なのは、そのような誘惑が同時に自己の主観を、互いへの無関心、さらには、孤立した妄想の地位へと転落させかねないものである、ということにあるのだろう。この点で、いったんは幼い娘の探索をあきらめかけた母親に語りかけるセラピストを職業とする乗客のメッセージは、実に皮肉に響く。いわく、彼女の娘は夫とともにすでに死んでしまったのであり、娘を連れて機内に乗り込んで来た、という体験は、結局主人公が自己の耐え難い喪失を忘却するために生み出した心地よい妄想でしかなかったのだ。誰もがそんな妄想を生み出す弱さをかかえているし、同情もできるが、しかし、どんなに辛くてもそんな妄想とは決別して「現実」を受け入れなければならない。主人公の理解者を装ったこのような「治癒(セラピー)」の囁きの根拠になっているのは、人間の意識についての相対主義であり、おそらくそれはグローバル空間の表面的な心地よさと裏で共犯関係を結んでいるのだ。


そうした「現実受容」を命じる声に対して、主人公の取れる選択肢はもう一つしかない。つまり、自らの無根拠の確信(=妄想)を決して手放さず、「娘を取り返す」という絶対的な欲望に忠実に、他人の事情など一顧だにせずに決然と行動することである。実のところ、この物語の主要部分はこの地点で終わっているのであり、残りの部分(真犯人の露見、娘の奪還、敵との最終決戦)はむしろ、そのようにして擁護された主人公の「確信」を支えるために後付けされたものでしかない。


だから、この作品をアクション映画として観てはならないのだ。