都路華香


都路華香展 at 東京国立近代美術館(竹橋)に行ってきた(実は昨日のこと)。華やかでなかなか良い筆名だが、彼は日本画家(男性)で、明治の末から大正時代ぐらいにかけて主に京都画壇を拠点に活躍していた。60歳前後で大成せずに逝去したのと、孝行な弟子に恵まれなかったこともあって作品が散逸し、本格的な評価の機会も無く最近まで忘れ去られていたらしい。今回は、彼の作品を中心としたアメリカの個人コレクションの協力を得て80点ばかりをかき集めての開催になったそうだ。


華香は師匠に当たる幸野楳嶺門下では、後に京都画壇の巨匠となる竹内栖鳳や「小雨降る吉野」という屏風絵の傑作がある菊池芳文などと同門で、二十歳前後のころには、橋本雅邦を慕って東京に出る前の川合玉堂とも仲良く交わっていた。こう聞けばだいたいどの世代に属する日本画家かがよく分かるけれど、ご本人については最近「発掘」されつつあるというだけあって、僕もまったく知らなかった。


展覧会場で読んだカタログには、彼が逝去した際に同僚画家たちによって書かれたエッセイがいくつか収録されているのだが、画家の人柄が偲ばれて興味深い。例えば、京都画壇では後進にあたる津田清楓(プロレタリア画家、1930年代には「犠牲者」という壮絶な絵を発表している)は、華香は「好々爺」だったと評しているが、その画業については中途半端なものと断じて、なかなか手厳しい。若い日に親しく交わった川合玉堂は当時の思い出を語っているが、東京進出後は親交が薄れ、その後の実作についてもあまり知らなかったと言う。竹内栖鳳は故人の「公明温雅」な人柄を偲んでいるが、修行時代のこれといったエピソードは思い出せない、と語っている。つまり、武勇伝をいくつも持っているような「芸術家」然とした人ではなく、人当たりの良い人で、ちょっと悪く言えば、むしろ当たり障りの無い所があったのかもしれない。


で、肝心の画風についてだが、やはり温雅で妙味のある絵を多く残している。最近の日本画展では若冲とか蕭白とか、「奇想の系譜」に属する画家が高く評価される傾向があり、それに慣れた僕らもとかくぱっと見のインパクトを求めてしまいがちなのだが、都路華香はそういう感じではない。むしろ、眺めていると心が暖まるような、人をほっとさせる絵画。人物像はたいてい満面の笑み(ニコチャンマークのような…)を浮かべているし。それでも、傑作という言葉に恥じない優品もいくつか残してる。


自分の個性は保存しながらも実験的な画風を求めたのか、そのスタイルは結構変化しており、個人的には、1910年代、40代の頃に描かれた作品がもっとも良いと思った。1911年の水墨「松の月」(no.33)は構図が素晴らしく、温和ななかにも隠された画家の知性がよく出ている。僕がもっとも好きだったのは、同年に描かれた屏風「緑波」(no.34)で、金地に緑・黒・青の和絵の具で描かれた穏やかな波面に映える光線の複雑な輝きは、印象派の世界にも近い。おそらく、アメリカのコレクションでも中核になっている作品なのだろうな。また見たい。


ちなみにチラシの絵はダルマさんである。