ビックリマン

定本 物語消費論 (角川文庫)

定本 物語消費論 (角川文庫)

 悪い意味で流行には流されないタチだ、という自覚がある。

 そう思ったきっかけは、ここ数ヶ月、断続的に80、90年代の日本の文化状況に関する本を何冊か読んだこと。昨日読み終わった大塚英志のこの本もそのなかの一冊なのだが、ここで取り上げられている話題は僕自身に近いようで、よく考えると実はそうでもない。

 ビックリマンシール、RPG(ファミコンの)*1、TDL、手塚治虫大友克洋をメルクマールとしながらもあえて社会現象としての『ジャンプ』を巡るマンガ史。ここで熱く語られている事象のどれもが僕自身の小中学生時代に見事に重なっており、程度の差こそあれそのそれぞれを僕は同時代で知っている。シールはたしかに集めた。マンガ雑誌も友達に借りて読んでいた。しかし、そこまで深くハマってはいなかったような気がする。*2TDLには数えるほどしか行っていないし、マリオは好きだったが実はドラクエの一つもクリアしていない(興味がなかったのではなく、たんに僕には難しかった…)。

 ならどうしてサブカルチャー批評の本などに手を出すのか?まず、やはり消費文化は(特に80年代以降は)時代をよく映すという事実についての基本的認識がある。異なる文化ジャンル間の垣根やそこに潜む階層秩序がなし崩しに脱差異化する、というのはジェイムソンが繰り返し言うようにポストモダン以降の社会的現実なのだから。

 しかし、「芸術」や「文学」に纏いついた権威的な空気が無くなって風通しが良くなるのは歓迎しても、なおそれらの還元しきれない可能性について考えたい場合は、いったいどうすれば良いのだろう?とりあえずはまず、棲み分けという既成事実に安住し過ぎないことなのだろう、と思う僕は、結局は批評的言説の越境性を信じたがっているのか?ややこしい話、居心地が悪いくらいの方がいいのかもしれない。

 雑食性が足りないのかもな…、とふと思う。

 という雑感はともかく、本は面白かったです。主に80年代後半から90年代初頭に書かれたエッセイ集で、後半はすべて軽い読み物風。いちばん重要なのはやはり巻頭に収録された「物語消費論ノート」。ボードリヤール物語論・人類学という枠組みそのものはすんなり理解できすぎてしまうぐらいだけど、ニューアカ系の知性がマーケティングに利用された経緯*3を皮肉に語る部分や、そこを突き詰めようという提言*4には個性が出ている。ただ、自分的には「物語消費論の基礎とその戦略」冒頭部分*5における、複製技術テクノロジーの進歩によって消費者に提供される(特に映像系の)〈物語ソフト〉の絶対量が無限増殖している、という状況認識がいちばん興味深かった。この当時ではまだビデオやゲーム止まりだが、現在ではDVDとネットによる供給量が加わっているから、この15年でどれだけ増えていることか。

 で、こうした観察に、やや唐突ながら以下のような引用を並置してみたらどうだろう。

サイバースペースの爆発的発展により「書物」という回路に情報発信を限定する必然性のなくなった今日、あらためて「書物にできること」「書物でやるべきこと」が抜き差しならない問題として問われているように思える…*6

と、やはり僕も思うわけだ。ここで「書物」を「小説」に置き換えてみると…。

*1:ちなみに同書(p.35)には、RPGの原型になったのはトールキン指輪物語』の熱狂的ファンたちが自分たちのあいだで始めた対面型role-playing gameだった、という逸話が紹介されている。なるほど。

*2:と言えると思うのは、途中までは僕と同じような人生と読書暦を辿りながら、アニメ、ゲーム、ライトノベルの世界に飛び込んでいった実例をいくつか身近で知っているから。片や僕は、今でもマンガやアニメは結構好きで暇なときの気晴らしにはよく見るのだが、その程度で止まっている。

*3:同書p.48

*4:p.54

*5:pp.21-2

*6:菊池暁「近頃、気になることのいくつか」http://www.dnp.co.jp/artscape/booknavi/061015.html