パティニール/パノラマ

 ベルギー王立美術館展at上野国立西洋美術館に行ってきた。

 いや、パティニールと直接関係はないのだけど(この画家の絵は展示されてない)、ここにその画像を載っけたのは「世界風景」を創始したと言われる画家のパノラマがどんなものか、気になったのでちょっと見てみたかったのだ。視点を高く設定して地平線を上方に描くことで、画面全体をフルに使って前景・中景・背景の奥行きを表現する。人間像は前景に描き込まれてはいるのだが、そのドラマは圧倒的な空間的拡がりの中でむしろ相対化されているようだ。

Temptation of St Anthony
c. 1515
Oil on panel, 155 x 173 cm
Museo del Prado, Madrid

この16世紀フランドルの画家は、当時新たに「発見」されつつあった新世界への有力な窓口となっていたアントウェルペンにあって、はじめて人間中心的なイメージ作りを離れ、奥行きと拡がりを持つ空間を主題とした「風景画」の創始者となった、と言われている。それ以前に画面の構成要素として風景が存在しなかったわけでは勿論ないのだが、パティニールにとって人間を描くことは二次的な関心事でしかなく、事実この絵画において聖アントニウスと彼を取り巻く人物たちは同僚画家クエンティン・マサイスの手になるものだという。*1

 ここから展覧会に話を戻すと、その息子コルネリウス・マサイスはむしろ父の同業者の方に影響を受け、パティニール風のパノラマ風景画を良く描いたという、その素描がcat.no.36(1540)で見られる。そこからさまざまな16世紀画家の手になる小品の素描ばかり20点ほど展示が続くのだが、パティニール風のパノラマがやがて17世紀ネーデルランド絵画によくあるような完成されたいわゆる「風景画」へと繋がってゆく、その漸進的な変化が観察できるような気がした。興味深い。

 で、もっと興味深いのは、このようにして「風景画」の系譜の中に位置づけられるパノラマ的構成が、17世紀オランダ風景と比較すると実はずいぶん異質なものにも見える、ということ。例えばライスダールにおいては、たいてい視点は低く設定されており、中景に位置する焦点の対象(木々や建物、渓流など)と、画面上方半分近くを占める空から降り注ぐ光とのコントラストに妙味がある。特に彼は「曇り空」の巧妙な利用によって、風景全体を一つの連続する色調で快くも小奇麗に纏め上げており、そのことによって風景はひとつの「内部空間」のような様相を帯びている。

 だが、パノラマ的な風景画の全面に横たわる大地の拡がりは、「内部」には還元できない、過剰なものにも見える。これは頑なに人間化を拒む空間の露呈だ、と僕は言いたいわけではなくて、むしろしばしばパノラマ的表象は一つの鳥瞰の中に空間を包摂せんとする人間的な(帝国的な)欲望と一体になっているようだ。例えば、cat.no.18(1620)のデニス・ファン・アルスロート『マリモンの城と庭園』はまさにある地方領主の版図を地誌的な精確さでもって表象したものだし(心地良い緑の沃野)、cat.no.31ペーテル・スネイエルスの『イザベラ王女のラーケン巡礼』も、前景に細かく描きこまれた巡礼の一行と、背景に見えるブリュッセルの都市遠景とを中景やや左の一本道を進む行列が繋ぐ、という凝った構成になっている。

 ちなみに、この後者のパノラマを可能にする丘陵がゆるやかにうねるさまの心地良さは、今回展示された作品中随一だった。イメージが見つかんないのが残念…。このパノラマが空間を視覚的に領有せんとする人間の欲望の充足を約束するから快いだけなのか、いやむしろ、ここには「内部空間」では表象されえない過剰があり、それが人間中心主義を越えてゆく可能性があるのか、どうか。大げさだが、さて、どうだろう。

 空間で話を続けると、この展覧会ではやはりジェームズ・アンソールの諸作品が白眉だと思った。ルーベンスの未完作や、マグリットの『光の帝国』(cat.no.108)(1954)など、あまり良い印象を持ってなかった画家たちの好作品に触れたのも収穫だが。アンソールには思い入れがあるし、彼にしては意外な初期作も見れて、その変化に思い巡らすのはやっぱりかなり楽しい。

*1:越宏一『風景画の出現――ヨーロッパ美術史講義』(岩波書店2004)による。