激情

Fury

Fury


読了。某Nさんはこの小説を読んで「ラシュディも終わったな」と思ったそうだが、それはちょっとかわいそうだとしても、確かに失敗作だとは思う。ただし、なんで失敗しているかというと、理由の分からない個人的な「憤激」と、世界そのものを狂わせる「復讐の女神」というテーマとの重なり合い方が、この作者のほかの小説ではちょっと見られないほど安易なものになっているように思われる(グローバルに共有される複雑な情動的問題のはずが、結局は不倫とか、性的倒錯とか、やはり性的な過去のトラウマとか、ぜんぶ個人的で心理学的なエピソードによる説明に行きついてしまう)からで、その逆をいうと、ラシュディの小説はある意味で常に同じようなことをしようとしている、つまり、登場人物の個人的レベルと、より大きな集団的レベル(ナショナル・アレゴリーとか、グローバル・アレゴリーとか、いろいろあるけどその差異はとりあえず考えないことにして)とをなんらかのやり方で(しばしば短絡的なまでに)媒介しようと試みているわけだから、そういう意味では彼の他の小説において「成功」だと解釈されているものが何なのか、それが、どういうあやういバランスのうちに成り立っているのか、なんで彼の小説はポレミカルになってしまいやすいのか。いろいろ考えさせるような作例にはなっているのだと思った。しかし毎日暑い……。