艾未未展&小泉明郎展

昨日は投票のあとひさびさに展覧会(8月上旬にロンドンで未来派展を見たけど、それを除くと、国内で美術館にいったのはひさしぶりという話)。


前者の艾未未(Ai Wei Wei)は現代中国のアーティストで、現代中国美術家の個展を見たのはこれが初めての経験。面白いのは、彼のスタイルが明確にモダニスト的なものを意識しているように思われるのに、同時に、中国文化の歴史的伝統を巧みに再利用しつつ、それでいて、作品全体を現代中国社会へのコメンタリーとして仕上げているところか。


たとえば、今回の展覧会に多かったのは、巨大な幾何学的立体で、これはすぐに抽象表現主義以後のミニマルアート(ドナルド・ジャッドとか)を連想させるし、この展覧会には出ていなかったが、ショップで見た図録によると、彼には『光の噴水』という作品もあり、形状としてはこれはロシア構成主義のウラジミール・タトリンのデザインによる実現しなかった『第三インターナショナル記念塔』(1919)計画をそのままモデルとして使っている(2007年にテイト・リヴァプールで展示されたらしい。あの入り口前のドックのようなところに設置されたようだ)。あと、写真作品の『漢時代の壺を落とす』(落して壊す)なんか、まんまアヴァンギャルド的なジェスチャーだ、と言えなくはない。


ただ即座に留保を入れると、これは彼の場合アナーキックな過去の拒絶・破壊のジェスチャーなのではなく、洗練されたスタイル、というか、作品全体のイメージはあくまで静的で、思索へといざなうような静けさがある。これは第二の特徴である、中国文化の再利用というのとも関連しており、それは端的に言うと形態ではなく、素材のレベルであらわれる。100×100の立方体『一トンのお茶』はまさにお茶の葉を圧縮してできた幾何学立体で、抽象化された形態のなかに、馥郁たる(文化的・物理的)香りを放つ物質が凝縮されている。90年代の作品で多いのは、取り壊された古い木造寺院(明朝・清朝ぐらいか)の材木を再利用して組み上げられた作品もあり、これはややパズル的な趣で、やはり幾何学図形や、中国の地図などが組み上げられる。


ここでのキーワードは「断片」である。どういうことかというと、破壊された伝統の断片をつなぎあわせることによって、あらたな全体性を暗示する、という静的でありつつ逆説的にダイナミックでもある方法なわけで、これはまさしくモダニズム的な〈伝統〉の観念を踏襲している。この見方を取ると、アヴァンギャルド的な破壊のジェスチャーも、作家個人のアナキズム的傾向をあらわすというよりは、現代中国の経済的・政治的ダイナミズムが破壊し、置き去りにしてゆくもの(展覧会の一室を埋め尽くしている写真連作は、中国政府当局によって再開発指定を受けて取り壊された建築物・廃墟と化した場所を記録している)をひとつひとつ拾い上げ、あらたに作品化する、という作業が喚起する、社会そのものの破壊的な変容のプロセスへの暗示というように意味づけなおすことができるかもしれない。


まあただ、これをもって艾未未が「批判的」アーティストだ、と自信をもって言い切れないところはおそらく、そのようにして再構築された「全体」のイメージが、しばしば中国の地図をあらわすことによって「政治的統一体」を示唆することもある(少なくとも三つの作品でこのモチーフが使われていた)からで、冷静に考えてみて、その地図のなかには必ずしも統一的な「中国」をあらわしているようにはとても思えない地域もなにげにしっかり含まれてしまっていることを考えると、この芸術家のスタイルが取り組まなければならない/取り囲まれている状況について、鑑賞者としてもっと意識的になってからでないと、彼の作品が喚起する心地よくなめらかな印象と雰囲気のなかでたわむれているだけに終わってしまうかな、と考えさせられた。そういう意味では、いい展覧会です。


もう一つ、併設された「小泉明郎展」はアーティストご自身からのお誘いがあって、楽しみにしつつ結局いけなかった心残りがあったので、今回ようやく見ることができてよかった。ヴィデオアート2作品。このジャンルについては僕はあまり経験がなくて、2006年に日本であったビル・ヴィオラ(巨匠)、去年の夏に四国丸亀の猪熊弦一郎美術館で見たピピロッティ・リスト(スイスの現代作家)などを思い出しつつ見ていたが、小泉氏の作品がこの二つと大きく異なるのは、まずより強い物語性を持っているところか。


今回見れたのは『ヒューマン・オペラXXX』(2007)と『僕の声はきっとあなたに届いてる』(2009)の二作品で、主要焦点人物の感情の発露(物語)を徐々にくずして、いわば異化していく手続き性は共通していて、その結果生み出されるコミカルな効果も二作で似ていなくはない(アーティストご自身の雰囲気がよく出ている)のだが、全体としては前者と後者はかなり違う印象だった。


まず前者はオランダ滞在時に撮られた作品で、「自分の悲劇を語ってください(謝礼あり)」という新聞広告でやってきた男性に暗い部屋で自分語りをしてもらうのだが、雰囲気がもりあがってくると撮影者のアーティスト自身(顔にへんな白塗りをしている)のがつねに介入してきて、その自分語りの潜在的ナルシシズム性をぶちこわしにしてしまう。へんなものを持たせたり、出演者の顔にペイントしたり、上着をめくりあげて落書きしてみたり。当然ながら出演者は怒って抵抗するわけだが、それでも撮影者は「私の命令に従え」と言って演出を強要するわけで、その辺のぶつかり合いのスリルの虚実ないまぜ(どこまでドキュメンタリーなのか、それともシナリオがある?)自体が面白く、その逆に、最後にアーティスト自身が不気味に叫び始めるところは「不条理」に落ち着いた感があった。端的に言うと、撮るものと撮られるものの緊張感が醍醐味か。


ただ、比べてみると僕には後者のほうがより面白かったのは、前者の緊張関係は、最終的に「撮るもの」の支配に終わってしまい、その結果異化されてしまう出演者が逆にかわいそうになってくる(この「かわいそう」という感情自体はごくふつうのもの)一方で、後者ではふつうでない感情のドラマが閉ざされた部屋のclaustrophobicな雰囲気に包摂されきらない要素が出てきているように思えるからだった。新宿の街角で男が携帯電話している。どうやら母親を温泉旅行に誘う不器用な息子、といった風情なのだが、作品の説明からわかるのは、現実にはその出演者の母親はじつはもう死んでいるらしいということ。後半になって、男の電話の向こうの声がヴォイスオーヴァーされると、男の電話相手が、スーパーのオフィスとか、銀行のカスタマーセンターとか、まったくランダムな赤の他人だったことが判明する。電話の受け手たちは、プライヴェートな感情の発露(もういない母への絶望的な語りかけ)にハプニング的に遭遇してうろたえ、当惑し、なおも仕事の文脈でメッセージを理解しようともがく。


ここでは以前の作品の二項の緊張関係が、新宿の雑踏を背景に、より大きなネットワークへと接続される。ここで問われるべき曖昧さとは、次のようなこと。男の感情の発露は、日本的サービス業特有の匿名的な受け答えに直面して、挫折しているのか? それとも、母の不在を埋められない男の声は、そのような匿名のネットワークをはけ口として利用することで、はじめて聞きとどけられることが可能になっているのか?*1


ちなみに、うしろに紀伊国屋書店の看板が映っている場面があるのだが、そこに『経済は感情で動く』という書籍のおおきな広告を見ることができる(これは偶然?それともねらって撮ったものだろうか。)。「情動労働」が話題になる昨今の情勢を踏まえると、このアーティストの映し出す感情は、そのような「経済を動かす」とされる感情(このタイトルはミスリーディングで、むしろ誰かが「経済」を動かすために「感情」を操作しようとしているのではないかと勘ぐってしまうくらいだが)と、どのような関係を切り結ぼうとしているのか? という疑問が浮かぶ。全体として、ヴィデオ・アートは予想外の効果を生み出すということかもしれず、そういう点でもとても興味深い作品。

*1:ちなみに、この後者の解釈については、このとき一緒に展覧会をみたうちの同居人から示唆を受けた