サタイアの話
迫りくる次の学期に向けた授業準備にも飽きたので(飽きているほどの余裕はまったくないのだが…)、某学会支部会の例会にすこしだけ顔を出し、『ガリヴァー旅行記』のサタイアの話を聞く。面白い。18世紀と20世紀は同じくサタイアの全盛期だと言えるだろうが、何がこの歴史的な条件だったのか? という質問が出てきていて、考えさせられた。
発表者のT氏はさまざまな要素を指摘してくれて、それがかなり示唆に富んでいた。18世紀の諷刺文学についてはなんにも知らない自分なのだが、20世紀の歴史とサタイアという問題はなんとなく身につまされる。*1いや、20世紀はかなりの「過剰」(過激さ)を孕んだ時代だから、判断停止を迫るサタイアというよりも、判断停止の地点からさらにぎりぎりの判断を迫られるユートピア/ディストピアの問題なのかも。*2
というわけで、翻訳をがんばろう。
本日聞いた音楽。
- アーティスト: マルケヴィチ(イーゴル),コクトー(ジャン),ユスティノフ(ピーター),マリー=フェルテ(ジャン),トニエッティ(アンヌ),ストラヴィンスキー,アンサンブル・ド・ソリスト
- 出版社/メーカー: ユニバーサル ミュージック クラシック
- 発売日: 2005/06/22
- メディア: CD
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*1:モダニズムについて言うとなんとなくジャンル論が成立しにくそうな印象があるし、おそらくその直感は間違いではないのだろうが、もっとひろく読んだらいくつかのパターンが現れることもあるだろうし、たんにそれはこちらの勉強不足なのかもしれない、という気もする。ただ、20世紀前半には既成のジャンルに依拠するとしても、それこそ新古典主義のようにパロディを孕んだ歪んだ形でしか出てこないわけで、それが必ずしも党派性を乗り越えることにはつながらないのが痛い。
*2:これはまたひるがえせば20世紀にはなにが社会にコミットする文学形式/芸術様式だったのか? という問いにもなるわけで、どうなのだろう。アヴァンギャルドか? リアリズムか? うーむ。