「いかなる意味でも文学者ではなく」

ジンメル・コレクション (ちくま学芸文庫)

ジンメル・コレクション (ちくま学芸文庫)


ドイツの哲学者・社会学ゲオルク・ジンメルはあらゆる意味で「転換期の思想家」という名にふさわしい人物だと思う。むかし読んだ文庫本をなにげなく読み返していたら、1900年、ちょうどふたつの世紀の転換点に立って発表されたこの同名のエッセイのなかで、ジンメルが「自分自身の不可能性」という形象のもとに、非常にアイロニカルなやり方で、モダニズム的な「瞬間の美学」の誕生について語っている、ということにふと気がついた。


あるとき、馬車でとある小さな村を通りかかったジンメルは、火事で焼けたらしく廃屋となった一軒の家を目にとめた。彼の質問を受けた御者は、その廃屋にまつわるひとつの話をジンメルに語って聞かせる(この話の内容については、興味があったら、実際に読んでみてください)。

 御者のこの話は、私には宿命となった。当時、私は、自分は文学者だと思っていた。御者の話は、それ自体が文学作品の可能性を秘めた素材であった。火薬のなかに、爆発を起こさせるエネルギーが潜んでいるようにである。しかし、私には、この一瞬のうちに凝縮された運命を芸術作品に造り上げることはできない、とわかったのだ。女のイメージは、何度も私の心を占めた。自分が敵だと思った男を片づけようとしたそのときに、男の愛が自分に向かってやって来て、それまで憎しみの仮面をかぶっていた愛の感情があらわとなった、あの瞬間の女のイメージがである。


 同じひとつの揺らめく炎が、一方で魂にぐいと食い込み、同時に、他方で身体を焼き尽くす。私は、女の心のなかで天国と地獄が出会った残酷な瞬間を、何度もありありと感じることができた。その瞬間は私をしっかりと捉えてしまい、私は、瞬間を越え出て、その縺れを、ひとつの平らな形象に置き換えることができなかった。瞬間は閉じたこわい力となって私に立ち向かっていた。瞬間の呪縛を解き放ち、ひとつの芸術的な形象を造り上げることは、私にはできなかったのだ。そのとき、私は悟った。現実は私にとってあまりに強すぎる、私は文学者ではない、いかなる意味でも文学者ではない、と。*1


因襲的な「はじまり」と「おわり」を持つ、単線的な時間のナラティヴ――「芸術作品」、「ひとつの平らな形象」と呼ばれているもの――では表現し切ることができない、爆発的な力を持った(同時代のアナキストによる爆弾テロを連想させる表現)、不条理な「瞬間」の美学。当時そのようなものが、いまだ「正典的モダニズム」の名のもとに定式化されていなかったからこそ、ジンメルは、みずからの美的感受性を、ひとつの「無能力」として表現せざるを得なかった。


しかし、現代の私たちは、ジンメルのこのエッセイそのものを「美的」に、まさに「文学者」の珠玉の作品としてしか感じ取ることができない。良くも悪くもモダニズムの遺産を日々生きているわたしたちにとってはまさに「文学者」によってしか書かれえないと思われるエッセイが、「いかなる意味でも文学者のものではない」、という強い否認をタイトルとしてのみ遺されていること――このアイロニーは、決定的な意味で、同時に歴史的であり、美学的でもある。

*1:同書pp.69-70.