人質

秋はおまつりのシーズンであるらしく、9月に入ってからほぼ一週間毎に近所のどこかの神社でおまつりをやっている。今日も太鼓の音が…。9月末には某神社で流鏑馬をやるらしい。ちょっと見てみたい。


マオ2

マオ2


読了。そもそもこちらで印象的なセリフが引用されていたのを目にしたので手にとってみた。アメリカの有名作家、ビル・グレイは小説が売れ始めてからメディアの前から姿を消し、奇妙な若者2人と隠者めいた生活を送っていた。だが、その謎めいた正体がまた熱狂的ファンの好奇心をかきたて、(サリンジャーのように)生きながら神秘化されてしまう、という悪循環におちいり、長年とりくんでいた新作の執筆も行き詰ってしまう。窮地を打開しようとしたビルは、なぜか中東でテロ組織に人質に取られたスイスの若手詩人を解放するプランに巻き込まれ、いつしか組織のスポークスマンによってみずからベイルートにおびき寄せられてゆく…。


そのビルのセリフ:

「このところ僕は、小説家とテロリストはゼロサム・ゲームをやってるんじゃないかって気がするんだ…テロリストが肥え太れば、小説家は痩せ細るってこと。やつらが大衆の意識に影響を与えれば与えるほど、感性や思想の形成者としてのわれわれ小説家の影響力は低下する。やつらが具現している危険性は、とりもなおさず僕たち小説家自身がもはや危険な存在じゃなくなったことの証なんだ。」*1


ただ、このセリフを口にするとき、彼は「空中爆破」や「建物を瓦礫の山にすること」など、いかにもポストモダン的なメディア社会がスペクタクルとして消費してしまいそうな事例を挙げている。このような「事件」が大衆の耳目を集めれば集めるほど、文学は公衆の関心を奪われてしまう。インパクトだけを考えるならば、この「ゼロサム・ゲーム」は小説家の負けに決まってる。ポストモダンの現状を抉り出す名ゼリフだとは思うが、文学的な可能性という観点からすると、ただの愚痴にしかなってない。


そこで、この小説を読み解く本当の鍵になっているのは、じつはもっと緩慢で粘り強く、否応なく身体的な次元との関わりを強制される、「人質」の描写と、その解放の可能性にあるのではなかろうか、とちらっと考えた(この小説では結局不可能だったわけだが)。たしかに、ビル自身も自分ひとりだけになって黙って考えている時に、そういうふうに言っている。

彼は、ジョージに言ってやることだってできたのだ。自分はあの人質を取り戻すために書いているのだと。やつらがあの部屋に人質を監禁して、この世から失われてしまった意味を取り戻すために自分は書いているのだと。*2


やや同情的な解釈。ところで、モランディといい、ウォーホールといい、デリーロはアート好きな作家なんですね。そういうのがわざとらしくて嫌いな人がいそうなのもまあ分かる。

*1:同書p.192.

*2:同書p.245.