落ちる男

Falling Man

Falling Man


読了。一週間ほど前に帰りの飛行機のなかで読み始めたものだったが、物語性に乏しく断片的な構成になっているので、あいまを見てゆっくり読みすすめることができた。なにしろ、重要な転機になりそうな出来事はほぼ「いつのまにか」起こっている。たとえば、主人公の元妻の母親は、もともと美術史の有名教授で、それなりに重要な登場人物なのにもかかわらず、いつのまにか死んでいたことをいきなり知らされてびっくり、といった具合だ。


ドン・デリーロはこれまでにもテロに関する小説を書いていたようだが、この新刊ではじめて2001年9月11日のあの事件を正面からとりあげた。しばしば現実の事件というものは、その被害や心理的衝撃が大きければ大きいほど、ある程度の時間を置いてからではないと文学の素材にはなりづらいようだ。たとえば、誰が言っていたのかは忘れたが、時局的な反応を除いて、第一次大戦(1914-1918)についての主要な回想録や小説が登場し始めたのは1920年代も半ばにさしかかってからだったという。*1


小説は事件当日、崩壊するワールド・トレード・センターから主人公Keithがからくも脱出する場面からはじまる。怪我を負い混乱した彼は、離婚した元妻とまだ小さな息子のもとを突如として訪れ、そこで奇妙な同居生活がはじまる。事件のインパクトは家族の回復をもたらすのか、と思いきや…。おそらく意図的なのだろうが、文体がきわめて美的。描出話法の多用、断片性、時間や記憶への偏執的なこだわりなど、すこしウルフを思い出させる。たとえば、主人公の元妻Lianneが世話するアルツハイマー症の物語療法グループの会話なんか、ちょっと『波』のよう。こういう悲惨な事件すらも表象のレベルでは美的に知覚されてしまいかねない、ということのコワさがこの小説の挑発的なテーマなのかもしれず、そのことは、Lianneと彼女の母の恋人でアート・ディーラーのMartinがモランディの静物画を覗き込んだときに、そこに思わず崩壊したツイン・タワーの影を見てしまう瞬間に、もっともよく表されている。ゆっくりと飽和に向かう時間のなかで、小説は円環を閉じて終わる。

*1:この逆を言うと、アップダイクにしろ、デリーロにしろ、こういう作品が出てきたということは、事件の当初のインパクトがだいぶ薄らいできているということの証拠なのかもしれない。冷静な判断ができるようになってきた、といのなら良いのだが、その裏面としては、忘却されかかっている、ということでもあるのかもしれず。事件を契機として起こったさまざまな悪い事態がいまでも終わっていないにもかかわらず。戦争や占領も。