親密さ

関東は台風が来るというので出かける用事は早めに済まし、家でブログを書く。

読んだ論文2篇。

竹村和子「〈テロリストの身体〉のその後――『カサマシマ公爵夫人』の終わり方」『英語青年』2006年9月
●都甲幸治「テロリズム・カルト・文学――ドン・デリーロの_Mao Ⅱ_における他者の表象」『アメリカ研究』2002年


一方はヘンリー・ジェイムズ1886年の作品、他方はドン・デリーロの1991年の小説を題材にした論文。どちらも共通して、「テロ集団」を疑似家族的な(つまり偽物の)「親密さ」を誘惑として差し出すものだ、と論じているのが興味深い。都甲論文によれば、デリーロの描写するテロやカルト集団は、リーダーや教祖を中心とした親密な垂直構造を持ち、外部に敵を設定することで内部を強固に統一する。竹村論文がジェイムズ作品中の集団に見出す「親密さ」は、もっと明確にホモエロティック(ホモソーシャル?)な感情的紐帯によって結びつけられている。三島由紀夫の『奔馬』(1969)も例に挙げられている。


ふーん、なるほどねぇ。すると、先日読んだアップダイクの_Terrorist_における同性愛のほのめかしは、ある意味かなり典型的なものだと言えるかな。ただ、両者とも、この模造的な「親密さ」は、実はテロ集団の他者とされるものにも書き込まれている、と論を転じてこれらの小説の批評性を見ているわけだが、アップダイクではどうだろう。Ahmadの心理が同性愛的なものとしてきわ立つのは、彼が嫌悪する社会があまりにも異性愛的なものとして描かれているからであって、特に、アップダイクの女性描写がステレオタイプに感じられたのは、女性たちをそこにどっぷり浸かったものとばかり描き出しているからかもしれない。うーん、どうかな。Charlie Chehubのコマーシャル観を参考に、これを消費文化の症候だと言い切ることもできそうだが。