疑似環境

The Rise of the Novel: Studies in Defoe, Richardson and Fielding

The Rise of the Novel: Studies in Defoe, Richardson and Fielding


小説の勃興

小説の勃興


たしかカルヴィーノだったか、ボルヘスだったか、「古典というのは読んでいなくても筋書きを知っているような気がするものだ」と云う旨の発言をしていたような気がするが、ワットの小説論なんかも、この時代の専門家でなくてもだいたいの道具立てを知った気になってしまっている。第一、第二章の経験主義&個人主義&新興読者層の3題噺なんかあたりは特にそう。最近ではワット説への批判的修正なんかも沢山出ているようだ。


だからといって読み返してつまらないということにはまったくならないのが古典と呼ばれる所以だろうし、新たな気持ちで発見したつもりになるポイントもいくつか。リチャードソン論の辺りなんかは、ほとんど印刷メディア文化論みたいに読める。例えば、第六章「私的経験と小説」で、都市化と私的経験が、リチャードソンにおいて書簡体と活字という〈文字の文化〉で媒介される在り様を記述するあたりとか、面白い。

舞台上のセリフ、または口頭によるナレーションでは、書簡のもつ親密で私的な趣は失われてしまうだろう。活字だけがこうした文学的効果を生み出す手段となりうる。それはまた現代の都市文化にとり、唯一可能な方式でもある。アリストテレスは都市の適切な大きさは、市民が一つの集会所で業務を執り行う必要性からおのずと制限されてしかるべきと考えていた。その大きさを越えると文化は口頭では伝達されず、連絡・通信の主要な手段は書き物になる。印刷術の発明とともに現代の都市化がもたらした典型的な特徴で、ルイス・マンフォードが「紙による疑似環境」と呼んだもの−−「目に見える現実的なものは…紙に記されているものだけ」−−が現出することになった。*1


よく知られているようにこの本の序文にはアドルノへの謝辞が含まれているし、第一章の時間―空間論を読むと、ワットがルカーチなんかも踏まえているということがよく分かる。ただ、それよりも僕にとって興味深いのは彼がQ・D・リーヴィスの『小説と大衆読者』からの「大きな刺激」を認めていることなのだが。


あと、ルイス・マンフォードについては以前から気になっていて、時間が出来たらぜひ読んでみたいのだが、浩瀚過ぎる彼の著作のどれから手をつけたらいいのか、分からなくて足踏みをしているのです。


ところで、歴史のこの時点で具体的な場所の都市化と活字の「疑似環境」が一種折り重なるような形で一つの文化圏を形成しているというのがもし本当だとしたら、もっと最近になると、いったいどうなんでしょうね。20世紀初頭では?あるいは、21世紀では?


だからつまり何を言いたいかというと、こういう雑多なものを含み込み、こっちの埒もない空想を刺激してくれるようなものが読んでいてやっぱりいちばん面白い。

*1:同書邦訳p.271-2より引用。これ以降の部分も興味深い。