近代主義者
そういえば先日、このブログを読んでくれている数少ない人たちから「最近パワーがない」と指摘されたのだが、それは本人でもつくづく自覚していて、なんというか実際的な面で時間がないと、なかなか書く気持ちになれない、という悪癖のせいである。
これはわがままというか、それとも単に自堕落と言うべきなのかは分からないけれど、なんにせよ今日はたまたま書く気になっているのでついでにもう一つメモ。
ベネディクト・アンダーソン グローバリゼーションを語る (光文社新書)
- 作者: 梅森直之
- 出版社/メーカー: 光文社
- 発売日: 2007/05/17
- メディア: 新書
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2005年に来日して早稲田で行った講演会の記録で、大変に分かりやすいうえ、アナーキズム、グローバリゼーションと翻訳・出版の関係などなど、ちょっと言及するような話題でもたいへんに刺激的で示唆的。詳しい内容については紹介してもしょうがない(関心のある人なら既に読んでいるだろうし)ので、気になったところを一箇所だけ。
理論的な書き物をする人は、ほとんどがある意味で、近代主義者です。ゲルナーも、わたし自身も、ホブズボームも、みんなナショナリズムが近代の現象であると思っています。スミスだけが、それは古代からすでにあった単位が長い時間をかけてしだいに発展してきたものと信じています…。
ただしここでホブズボームやゲルナーとわたしが異なるのは、かれらには古代の歴史を単なる作り物であり、無意味であると考える傾向があったことです。わたしは、過去に思いをめぐらせる文学的訓練のおかげで、こうした過去を、単なるウソや作り事でなく、多分真実ではないにしろ、ある特定の意味においては現実であるようなものとして考えたいと思ってきました。例えば、ハックルベリー・フィンやハムレット、光源氏といった物語の登場人物は、実在したしないにかかわらず、その文化と理解する上できわめて重要であるということです。*1
アンダーソンが「文学的」なのはこういうところが理由となっているんだろうな。
しかし、想像の力で「古代」に思いを巡らせる迂回路を通ることで、過去の時代と「近代」との対比に驚いて一旦は立ち竦みつつ、その停止状態から再出発して新しい洞察を導き出すことの出来る思想家には、真の意味での「モダニスト」の名前が相応しい、と思うのだけど。
*1:同書p.45から引用。