今月読んだ本

 

 ここ数ヶ月はおもいっきり濫読するつもりでやっているので、いろいろと面白い本に突き当たることが多い。11月に読んだなかでは、この本にもっとも触発された。五十嵐太郎氏の本を読んだのはこれで3冊目。『読んで旅する世界の名建築』ではその旺盛な行動力と体力にただただ驚嘆しながらも世界中の建築を一緒になって体感させてもらった気がした、が、その現代日本篇とでも言うべき『現代建築のパースペクティヴ』は少し散漫な構成のように思われて、面白かったけれどインスパイアまではされなかった。

 それが今度の『現代建築に関する16章』では著者ならではのフットワークの軽さが、たぐいまれな構成力によって見事にまとめ上げられている。正直、話が落ちていないように思える章も無い訳ではないけれど(たとえば「透明性」についての部分は僕にはちょっと分かりにくかった)、これだけ面白そうな話題を次々と提供してくれ、しかもこれだけお手軽に読める本もなかなかあるまい(「語り降ろし」という成立経緯にもよるかもしれない)。その軽さを批判する人もいるみたいだし、分からなくはないけれど、僕のような建築門外漢にはむしろその点こそが大きな魅力に見えるわけで。


 いつものことだが、建築史についての本を読むと一時的に頭がすっきり整理されたような気になる。一瞬、スタイルの実践と時代意識との取っ組み合いがとても明確に見通せるような気がするのだ。


 だが、僕にとってのホームグラウンドであるはずの言語表現の分野ではスタイル(文体)の問題と時代意識とのあいだに明確な媒介を確立するのがかなり難しいような気がいつもしている。単に微妙な差異に拘泥しすぎているだけかもしれないが、言語表現においては、なにがモダンで、なにがポストモダンで、なにがグローバルなのか、一概に言い切ることが僕にはできない。しかし、そのような断言への躊躇はもしかしたら、「文学」や「小説」が享受する相対的自律性が他の芸術ジャンルと比べてやや大きいのではないか、という先入観=思い込みのせいなのかもしれない。つまり甘えてるっていうことで、それはそのジャンルを巡る言葉の質にも影響するのではないか。

 たとえば次のような部分。

 もちろん、建築自体はモノです、しかし、ただのモノとしてのみ存在するわけではありません。キャンセルになったアイデアも含めて、おびただしい量のスケッチやドローイングが描かれた後に、はじめて建築は成立します、図面以外にも、他者とコミュニケーションを行い、共通認識を得るために、言葉によって建築を理解し、表現せざるをえない場面もあります。おそらく、モノであるはずの建築が、何らかの媒介を要請するのは、そうした他者が出現する地点においてです。建築は、ひとりだけの力ではつくることができません。*1

 一方で、表現そのものをそれこそ即物的に「モノ」であると認識し、他方で、だからこそ「言葉」が研ぎ澄まされなければならない、と考えること。ちょっと見習って、文学ははじめから言語なのだから媒介なんかいらない、などと余裕で構えているのを止めるべきなのだ。

 その意味で、他者は繰り返し繰り返し見出されなければならないのではないかなぁ、とか大袈裟なことを考えるのは、疲れてるせいかな…。いやまあ、自戒を込めて言っていることなのだけど。

*1:同書p.263