「燻製鰊」をうばいあう

 ベルギー王立美術館展at上野の続き。

 僕にとってはこの展覧会のメイン・イヴェントはやはりなんといってもジェイムズ・アンソールだった。僕は作品と自我の距離が近い、やや表現主義的な画家たちに惹かれる傾向がある。例えば、cat.no.80『燻製鰊をうばいあう骸骨たち』(1891)の場合、フランス語の「燻製鰊」はun hareng-saur、発音としては「アンソールの芸術」に似ているのだそうだ。つまり、ニシンをうばいあう骸骨たちはアンソールの作品をめぐって争う美術批評家たち、で、彼自身はその2匹の骸骨の口にくわえられた干物、という強烈なアイロニーがここにはある。

http://www.fine-arts-museum.be/site/EN/frames/F_peinture19.html

 面白いのは展示の仕方にいろいろな仕掛けが施されてるような気がしたところ。アンソールのcat.no.75『ロシア音楽』(1881)は、フェルナン・クノップフのcat.no.1883『シューマンを聴きながら』(1883)と隣り合わせに掛けられている。アンソールとベルギー象徴派のクノップフ、それぞれが後に確立したスタイルを知っていたら連想できるはずがない2人の作風が、ここでは奇妙にも似通ってしまっている(どちらも中産階級の私室での音楽鑑賞を題材にしている)。 前者は1860年生まれで、後者は1858年だから実は歳も近いし、この2人の出発点は案外遠くなかったということがよく分かる。

 19世紀中葉以降に芸術表現の前衛がアカデミズムと新古典主義から離れてゆくその過程で、世紀末の芸術にはこんな対照が生まれていた、ということだ。

 でも、もっと面白いのはそのアンソール自身の驚異的な変化なのだ。『ロシア音楽』のすぐ隣には、そのたった2年後に描かれたという『怒れる仮面』(cat.no.76)が掛けられている。同じ画家が同じ「室内」を舞台にしているのに、前者のプライベートなブルジョワ空間における親密感と、後者の都市貧困層の空間の一触即発の緊張感、この違いはいったいぜんたいどうしたことか。前者の空間を快適に包む壁紙、カーテン、カーペットの描き方を眺めていると、後者がその全てを欠いていることが、意図的な「剥ぎ取り」の結果であるかのような気さえしてくる。

 都市貧困層の住まいにおいて私的空間はあらゆる親密さの指標を奪い去られ、かくしてそこで「空間」そのものが露呈してくる。そしてまた、この露呈は、2人の登場人物にカーニヴァルの仮面を装わすことによって初めて可能になった、という奇妙な逆説もある。ここでは、近代の下層中産階級の「剥き出しの生活」と、前近代の民衆的なカーニヴァルが、あやうい出会いを演じている。

 そこで、アンソールはその画業の短い盛りを通じて、初期のブルジョワ的私室の表象から都市貧困層の剥き出しの空間を経て、民衆的なカーニヴァルの舞台へと一挙にリープしようとしたのだ、というナラティヴを踏まえて、さらにラクガキみたいなcat.no.79『黄金の拍車の戦い』(1891)を見ると、争いあう無数の兵士たちを極限まで矮小化する過剰なパノラマの再出現がなんだかいっそう意義深く見えてくる。

http://event.yomiuri.co.jp/royal/works04.htm

 ところでこれ、ブリューゲルを思わせるような気がしたのだけど、それがどの絵だったか、残念ながらちょっと思い出せないんだよね…。